教育の鬼・シム ブログ⑬~いじめ問題~

「いじめ」が問題になるたびに保護者が、教師の対応が、学校の対応が、教育委員会の対応が、と大人の責任ばかりがクローズアップされていく。
「いじめ」をめぐって防止と対処、対策に大人は躍起になっている。
ちがう。
子どもなのである。
なぜ、「いじめなんてやめろよ」と言える子どもがいないのか。
「ねえ、それ、やりすぎじゃない?」と一言言える子どもがなぜいないのか。
先生にこっそりと密告す(チク)る子がいないのはなぜ。
「先生、あの子いじめられてる。このままだとやばいよ」

大人によって集められた子ども集団が白けている。
そこでは、同じ集団内にいる他者はあたかも別世界の人間のようにしか感じられていない。
別世界の人間の「いじめ」と「いじめられ」に大きく感じるものは、ない。
道徳心がない?
ちがう。
たいして感じないのだ。
いじめをする子はたいして感じていない。相手をどこまで追い込んでいるのかを。
いじめの周囲にいる子もたいして感じていない。その子がどこまで追い込まれているのかを。
いじめられる子は……、集団から孤立する。

マジ、ヤバクネ?

スマホで言えば、アンテナゼロか、かろうじて一本。
Wi-Fiの電波ではない。
他者の心や感情、その場の雰囲気、空気を受信するアンテナである。

日本の教育(学校も家庭も)は子どもの個性を育てるという名目のもと、子どもを一人ひとり個別に育てすぎた。
子ども集団の中で子どもを育てる発想を今一度、取り戻そう。
集団の中で意識や考え、想い、感情が発信され、時にはぶつかり、時には共鳴し合うことで人の心やその場の雰囲気、空気を感じる感性が育まれるのである。
バリバリにアンテナが立ちまくっている子どもは集団の中でこそ育つ。

大人の手で作られた道徳教材でいじめをしない心、いじめをゆるさない精神を教えてもアンテナの立たない子どもにはのれんに腕押し、ヌカに釘である。

子ども集団の意味と価値とその力をもう一度見直すべきである。